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天災よりも人災の方が忘れた頃にやってくる

プラトンは、名誉支配制、寡頭制、民主制という体制の変化を経て出現する最悪の頽落(たいらく)形態として僭主制を位置づけ、僭主についての凄惨な描写を残している。
歴史的に見れば、前7世紀から5世紀中葉までの僭主制は、貨幣経済の出現に伴う社会危機の産物で、その権力基盤は軍事力と掠奪した財産以外になく、まさに「力の支配」以外の何ものでもなかった。
人間は忘れる生き物でもあるが、繰り返すうちに覚える生き物でもある。
倫理学(ethics)の語源ともなるギリシア語のエートスは、動物の「巣」が原意であるが、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、倫理的な卓越性、すなわち徳は本性的に与えられているのではなく、行為を習慣化することによって生まれると見ている。
習慣化と同様に、ヘシオドスや二宮尊徳のいうような、互いに食い合い、奪い合う畜生道ではなく、正義や人道を歩むには、仕事や勉強のように、覚えるまで繰り返すしか方法がないのではないかと思う。
現代日本においては、僭主制を取り戻し、畜生道に突き進もうとしているが、そのような過ちも何度繰り返せば覚えるのだろうか?と思う。

カントは、永遠平和の実現には、「金力を断つ」ことが緊要だと考えたが、軍産複合体は「囚人のジレンマ」と同様のゲーム理論に基づく「抑止力」という言葉を使って「裏切り」を行った人間の一人勝ちになる不安を煽って平和の実現を阻止している。「裏切り」「裏切り」の「力の支配」が本当に「平和」なのだろうか?。
以前ブログで「突沸」の話を書いたことがあるが、「突沸」や、芥川の「蜘蛛の糸」のようにこのような「平和」はいつ「戦争」になったかわからない内に一瞬で崩壊するものだと思う。
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