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アブダクション

麻生氏は29日に横浜市で開いた研修会で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と述べていたそうだが、政治家がこのような原理で行動すると、観察者である国民は「アブダクション」と呼ばれる推論をよくしてしまう。
Wikipedia「アブダクション」
アブダクションは、結論 b に規則「a ならば b である」を当てはめて仮定 a を推論する。帰納が仮定と結論から規則を推論するのに対し、アブダクションは結論と規則から仮定を推論する。アブダクションは、推論した仮定が真であることを保証しない。アブダクションそれ自体としては、形式的には論理学でいう後件肯定に等しい。このようにアブダクティヴな推論はそこで提起される原因が疑わしいので、「前後即因果の誤謬 (Post hoc ergo propter hoc)」という時間の前後関係を因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。

アブダクションも「帰納的推論」の一種で、Wikipediaで紹介されている「カラスは黒い」という感じの帰納法は「枚挙的帰納法」のことを言っている。違いはWikipediaでも述べられているように、仮定を推論するか規則を推論するかである。
アブダクションの例をあげるとすれば次のようなものである。
①すべての金属は熱したら膨張する。
②金属Aは膨張した。
③ゆえに金属Aは熱せられた。
これが、
①すべての金属は熱したら膨張する。
②金属Aを熱した。
③ゆえに金属Aは膨張した。
であったなら、演繹的推論となる。
ここで以前ブログでご紹介した「人道」と「鳥獣争奪の道」の話を思いだしてもらいたい。


麻生氏や明治維新の官軍のいうように「結果がすべて(勝てば官軍)」であれば、食糧(現代なら金)が手に入ればそれでいいのであるから、「人道」によろうが「鳥獣争奪の道」によろうが関係ない。
そう考えると人道とは演繹法なのだ。
騙したり盗んだりなどして食糧を手に入れたとしても、それでその人が偉いとか立派だと思うのは「アブダクション」そのものである。
食べれたら一緒か、真面目に働いたから食べれる、どちらもあり得ることであるが、みんながそうしたら戦争になる・平和になる方はどちらか?というのを政治家は考える義務があることを忘れないでもらいたい。
そのような義務を放棄して利己主義(=社会ダーウィニズム)に走るのは専制にも劣る政治形態である。

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