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果たしてそれが正義なのだろうか?

生命活動は動的であり、連続的・反復的に生じており、確かに相対的なもので、「絶対と言えるものなどない」と言えなくもない。
しかし、生物が、その反復する過程において演繹的な筋道を辿らず反復した場合、どのような結果が生じるだろうか?。
以前からブログで書いてるので詳しく書かないが、A→Bの後、B→Aでなく、B→Cの結果が生じる可能性もあるという話だ。
つまりは下の写真のような結果が生じる可能性があるということだ。
 
 
 
結果本位でルールを無視すると、このハエのようになる可能性がある。実際アベ政治の「積極的平和主義」も本来の意味と正反対である。
紀元前8世紀の詩人ヘシオドスは「正義という法は人間に対してだけゼウスが定めたものであり、互いに食い合いをする魚や獣や翼をもつ鳥どもには、正義なるものは存在しない」と記すが、時代が下ると正義の相対性を説く論者たち(ソフィスト)が活躍するようになる。
結果本位を主張する連中は、果たして全体の姿が見えているのだろうか?。
目先の利益(または危険)に目がくらんで、全体の姿を理解せず【=メタ認知能力の欠如】、自分たちに都合の良いルール(または囚人のジレンマ状態)をつくるために、法の相対性を主張し、「法の支配」を否定して、「力の支配」の法治国家(=強者の利益のみを正義とする国家)を実現することが果たして正義なのだろうか?。
 


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豚の哲学を教える麻生氏

 

麻生氏、ヒトラー巡る発言を撤回 「誤解招き遺憾」

 
 麻生太郎副総理兼財務相は30日、派閥の研修会の講演で「ヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメ」と発言したことについて、「ヒトラーを例示としてあげたことは不適切であり撤回したい」とのコメントを出した。
 
 麻生氏は「私の発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」とした上で、「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する趣旨で、悪(あ)しき政治家の例としてヒトラーをあげた」と釈明。「私がヒトラーについて、極めて否定的にとらえていることは、発言の全体から明らかであり、ヒトラーは動機においても誤っていたことも明らかである」としている。
 
 麻生氏は29日に横浜市で開いた研修会で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と述べていた。
 
 
麻生氏の発言が仮に誤解だとしても、釈明としての『政治家にとって結果を出すことがすべて』という発言にも問題がある。
このような発言はジョン・スチュアート・ミルに言わせれば『豚の哲学』である。
J.S.ミルは「満足した豚であるより、不満足なソクラテスでありたい。なぜなら、愚者は物語の片面しか知らないが、賢者は両面を知っているから」と記している。
2017-8-15の『エスパー高須』という記事を読んでもらえればわかると思うが、結果がすべてというような連中がいかに自分たちの側のことしか知らないかわかるはずである。
J・S・ミルも黄金律に基づいた「高級な喜びと低級な喜びを区別する方法はただ一つ。両方を経験した人が、それを好むかどうかである」という主張をしているが、特攻でもおまえらはせぇへんくせに美化するなという話である。
結果だけがすべてというが、その結果の内容が戦前のような利己主義的倫理説に立脚して、国民の天賦人権を否定し、滅私奉公を強要する内容なら、マングースにハブを退治する義務がないのと同じで、国民が異を唱えたとしても、自分たちのことしか知らないのだから聞く耳さえ持たなくなるだろう。
それに、動機を問わないというのは人間として一番大切なものを失う可能性があることを知るべきである。



『結果がすべての世界』




現代日本においては、地獄に落ちるような真似をする輩が神と呼ばれ、成功者を妬むなと教えられる。
そして、成功者である神は、自分たちの楽園を奪われないようにするため、地獄よりも地獄的な世界をつくりだす。
人々は、苦しめられる側より苦しめる側に立つために、自らすすんで(忖度して)鬼となり、煙草をふかす。



「私たちは何も悪いことをしていないのにどうしてこんなひどいことができるんだ!?。同じ人間なのに…」
このような怨みの声には、鬼はこう答える。
「正義は人それぞれだ。それに正義というものは、時代や情勢でも変化するし、国や地域などでも違うものだ。この国では、神のおっしゃることが正義なのだ。それに神の命令に逆らえば反対にわしが地獄におとされる…」
「…」
鬼は最後にこうつぶやく。
「気の毒だが、悪い人間が地獄に落ちるんじゃなくて、地獄に落ちた人間が悪い人間なのだ…」
 
 本当に「イッペン、死ンデミル……?」と言いたくなる。


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世紀の独裁者

 
麻生氏、ヒトラー巡る発言を撤回 「誤解招き遺憾」
 
 麻生太郎副総理兼財務相は30日、派閥の研修会の講演で「ヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメ」と発言したことについて、「ヒトラーを例示としてあげたことは不適切であり撤回したい」とのコメントを出した。
 
 麻生氏は「私の発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾」とした上で、「政治家にとって結果を出すことがすべてであることを強調する趣旨で、悪(あ)しき政治家の例としてヒトラーをあげた」と釈明。「私がヒトラーについて、極めて否定的にとらえていることは、発言の全体から明らかであり、ヒトラーは動機においても誤っていたことも明らかである」としている。
 
 麻生氏は29日に横浜市で開いた研修会で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と述べていた。
 
珍しくNHKのお昼のニュースでも報道されたが、麻生にしても「ナチスクリニック」だとといきってブログに書いてた高須とそっくりでナチスに対して手のひら返しのそっくりな反応をしている。
戦争の時でもアメリカを一番ひどく言ってた輩が戦後一番アメリカに尻尾振るような真似をしたそうだから、驚きに価しないのかも知れないが…。
最近、アメブロで結果から考えることは魔女裁判にも通じるものがあり危険だと指摘した。
結果から考えることは、その過程において(安倍や麻生や高須みたいに)一貫性がなくなるのだ。
日本の裁判は「99%有罪」というカラクリも結果から考えるからだ。
そしてそれを支える制度が『代用監獄』である。

「代用監獄」とは何ですか?

(1)世界でもまれ
日本の刑事訴訟法では、逮捕された被疑者は、3日以内に裁判官の面前に引致されなければならず、裁判官が勾留の決定をすると、被疑者は拘置所に移されて、最大10日間(更に10日間、特殊な犯罪の場合には15日間延長が可能)拘禁されることになっています。
しかし、実際には、監獄法(1908年)で「警察官署に付属する留置場は之を監獄に代用することを得」と定めているため(1条3項)、ごく例外的な場合を除き、全ての被疑者が勾留決定後、捜査を担当する警察の留置場(代用監獄)に連れもどされます。被疑者は、警察によって、逮捕後23日間も拘禁され、身柄を管理されるのです。この警察留置場に監獄の代用として被疑者を長期間拘禁し、取調べを行うことを認める日本独特の制度が、「代用監獄」制度です。

(2)えん罪の温床
日本の警察は被疑者の取調べに熱心で、自白を強要しがちです。自白を得るために、警察官が被疑者を拘禁している状況を不当に利用することがしばしばあります。深夜までの厳しい取調べによって無実の者が自白させられる等、代用監獄制度が深刻な人権侵害やえん罪の原因となっています。
警察庁は、「1980年から捜査部局と身柄管理部局(看守係)を分離したので、人権侵害はもう起こらない」と主張していますが、同じ警察の内部で係を分離しても無意昧です。現に、その後もえん罪事件は次々と発生しています。

(3)約束違反の存続
1908年に拘置所の不足から暫定的制度として発足し、政府自身その弊害を認めて、「将来は監獄として用いない」ことを約束した「代用監獄」が、捜査にとって非常に便利なために現在も維持、活用されているのです。

(1996年12月1日 日本弁護士連合会発行 「代用監獄の廃止を求めて」より)

(※現代でも上述されていないが殴る蹴るの暴行も普通に行われている。)

こんな結果という欲望からくる権利ばかり求め、過程において理性から求められる義務を放棄する輩はヤクザと同じで、こんな輩に権力を集中させる危険性を国民は知るべきだと思う。



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アダム・スミスはインディアン?

 

アダム・スミスは『国富論』の中でこんなことを述べている。

 

 
 
 
こんなことを現代日本で述べたら、「おまえはインディアンか?」「なんでインディアンの悪いことは言わないんだ」「獅子身中の虫」などとネトウヨ・ネトサポに叩かれることになるだろう。
そして本音は「金銀鉱山の発見」であっても特定秘密にして、建前である「もっと称賛すべき他の動機」を垂れ流して国民を洗脳するのだ。
アメリカの場合、世が下るとともに、この「もっと称賛すべき他の動機」を持つ人々が、「金銀鉱山の発見」を動機とする人々を洗い流してしまったわけであるが(残念なことに新自由主義により不正と愚行の原理を唱える人々が、「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」みたいに復活しているが…)、これが「もっと称賛すべき他の動機」ではなく、もっと不正と愚行の他の動機を付け加えていたらどうなっていたであろうか?。ヤクザのように血を血で洗う結果となり、称賛すべき国家とはならなかったのではなかろうか?。ガンジーは『目には目をでは世界が盲目になるだけだ』と述べたそうだが、血を血で洗っても囚人のジレンマに陥るだけで、また、身を洗って、また泥にころがってもなんの改善にもならないことがわかるだろう。
このようなアベ政治の不正と愚行を隠す真似を非難したからと言って「どこの国の国民だ!」という輩は、愚行と不正を助長、幇助する頭の狂った獅子身中のウジ虫と呼ぶべき存在であろう。
 


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王様を欲しがったカエル

権力分立を否定し、社会ダーウィニズムに基づいて権力集中を唱え、国民主権を否定し(=政治家の義務の放棄)、国家主権を肯定(=政治家の命令には絶対服従)する宣伝を大々的に行っている現代日本を見ているとイソップ物語のこんなお話を思いだす。


『王様を欲しがったカエル』
 
 
これとよく似た話で、沖縄のハブ退治のためにマングースを導入した例があるが、マングースはハブを退治せず、ハブより弱いヤンバルクイナやオキナワキノボリトカゲなどの島固有の希少種を食べた。
戦前の国民主権否定の権力集中制を取り戻したら、国民はただのエサの立場になることを知るべきだと思う。
 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

 

※国家主権(こっかしゅけん)

国家が領域内においてもつ排他的支配権のことであって,単に主権ともいわれるものであるが,主権という用語が多義的であるのに伴って,この国家主権も種々に解される。一つは,ある国家が他の国家の権力のもとになく対外的に独立しているとき,すなわちその国家が主権国家であるとき,その国家を主権国家たらしめる力をいう場合である。他は,対内的に国家の最高の力としての主権が君主にあるのでもなく,また国民にあるのでもなくて国家そのものにあるとされるとき,それをいう場合である。これは国家法人説にみることができる。なおこの国家法人説における国家主権は,独特の意味内容をもっている。すなわち,この学説は君主主権人民主権とを妥協させるため,主権の保持者は人格としての国家にあると主張して,国家主権という概念をつくり出したからである。


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