大手メディアの報道は『粉飾決算』や『魔女のハンマー』みたいだ(゜Д゜)
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果たしてそれが正義なのだろうか?
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豚の哲学を教える麻生氏
麻生氏、ヒトラー巡る発言を撤回 「誤解招き遺憾」
『結果がすべての世界』
現代日本においては、地獄に落ちるような真似をする輩が神と呼ばれ、成功者を妬むなと教えられる。
そして、成功者である神は、自分たちの楽園を奪われないようにするため、地獄よりも地獄的な世界をつくりだす。
人々は、苦しめられる側より苦しめる側に立つために、自らすすんで(忖度して)鬼となり、煙草をふかす。
「私たちは何も悪いことをしていないのにどうしてこんなひどいことができるんだ!?。同じ人間なのに…」
このような怨みの声には、鬼はこう答える。
「正義は人それぞれだ。それに正義というものは、時代や情勢でも変化するし、国や地域などでも違うものだ。この国では、神のおっしゃることが正義なのだ。それに神の命令に逆らえば反対にわしが地獄におとされる…」
「…」
鬼は最後にこうつぶやく。
「気の毒だが、悪い人間が地獄に落ちるんじゃなくて、地獄に落ちた人間が悪い人間なのだ…」
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世紀の独裁者
「代用監獄」とは何ですか?
(1)世界でもまれ
日本の刑事訴訟法では、逮捕された被疑者は、3日以内に裁判官の面前に引致されなければならず、裁判官が勾留の決定をすると、被疑者は拘置所に移されて、最大10日間(更に10日間、特殊な犯罪の場合には15日間延長が可能)拘禁されることになっています。
しかし、実際には、監獄法(1908年)で「警察官署に付属する留置場は之を監獄に代用することを得」と定めているため(1条3項)、ごく例外的な場合を除き、全ての被疑者が勾留決定後、捜査を担当する警察の留置場(代用監獄)に連れもどされます。被疑者は、警察によって、逮捕後23日間も拘禁され、身柄を管理されるのです。この警察留置場に監獄の代用として被疑者を長期間拘禁し、取調べを行うことを認める日本独特の制度が、「代用監獄」制度です。
(2)えん罪の温床
日本の警察は被疑者の取調べに熱心で、自白を強要しがちです。自白を得るために、警察官が被疑者を拘禁している状況を不当に利用することがしばしばあります。深夜までの厳しい取調べによって無実の者が自白させられる等、代用監獄制度が深刻な人権侵害やえん罪の原因となっています。
警察庁は、「1980年から捜査部局と身柄管理部局(看守係)を分離したので、人権侵害はもう起こらない」と主張していますが、同じ警察の内部で係を分離しても無意昧です。現に、その後もえん罪事件は次々と発生しています。
(3)約束違反の存続
1908年に拘置所の不足から暫定的制度として発足し、政府自身その弊害を認めて、「将来は監獄として用いない」ことを約束した「代用監獄」が、捜査にとって非常に便利なために現在も維持、活用されているのです。
(1996年12月1日 日本弁護士連合会発行 「代用監獄の廃止を求めて」より)
(※現代でも上述されていないが殴る蹴るの暴行も普通に行われている。)
こんな結果という欲望からくる権利ばかり求め、過程において理性から求められる義務を放棄する輩はヤクザと同じで、こんな輩に権力を集中させる危険性を国民は知るべきだと思う。
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アダム・スミスはインディアン?
アダム・スミスは『国富論』の中でこんなことを述べている。
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王様を欲しがったカエル
権力分立を否定し、社会ダーウィニズムに基づいて権力集中を唱え、国民主権を否定し(=政治家の義務の放棄)、国家主権を肯定(=政治家の命令には絶対服従)する宣伝を大々的に行っている現代日本を見ているとイソップ物語のこんなお話を思いだす。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
※国家主権(こっかしゅけん)
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概念とは?~こんな人たちについて考える~
〔哲〕(concept フランス・ イギリス・Begriff ドイツ)
①事物の本質をとらえる思考の形式。事物の本質的な特徴とそれらの連関が概念の内容(内包)。概念は同一の本質をもつ一定範囲の事物(外延)に適用されるから一般性をもつ。例えば、人という概念の内包は人の人としての本質的特徴(理性的動物あるいは社会的動物など)であり、外延はその特徴をもつあらゆる人々である。しかし、個体(例えばソクラテス)をとらえる概念(個体概念・単独概念)もある。概念は言語に表現されて「名辞」と呼ばれ、その意味内容として存在する。概念の成立については哲学上いろいろの見解があって、経験される多くの事物に共通の内容をとりだし(抽象)、個々の事物にのみ属する偶然的な性質をすてる(捨象)ことによるとするのが経験論の立場で、これに対立するものが経験から独立した概念(先天的概念)を認める合理論の立場。
②大まかな意味内容。
と説明されている。
【内包】や【外延】という耳慣れない言葉が使われているが、これらの言葉も広辞苑によれば次のように説明されている。
がい‐えん【外延】
(extension)
〔論〕ある概念の適用されるべき事物の範囲。例えば金属という概念の外延は金・銀・銅・鉄などである。⇔内包。
ない‐ほう【内包】
①〔論〕(intension; connotation)概念の適用される範囲(外延)に属する諸事物が共通に有する徴表(性質)の全体。形式論理学上は、内包と外延とは、反対の方向に増減する。例えば、学者という概念は、哲学者・文学者・科学者・経済学者などの学者の全種類を包括するが、学者という概念に「哲学研究」という徴表を加えると、内包はそれだけ増加し、外延は反対に減少する。内容。
②内部に含み持つこと。
概念の適用については見解の相違はないが、成立については見解の相違が存在する。この概念と同様の相違が法についても存在する。
概念といわれてもピンとこない人が多いかもしれないが、概念に内包されることが変化するとアベの「こんな人たち」や維新・村上の「あなたみたいな人のいうこと聞く価値ないですね」という発言がとびだしてくることになる。こんな政治家は理性を持たない人と呼べない連中なのであるが麻生などそれが政治家というのだからアホウと苗字を変えろと言いたい。例えるなら「今日から金以外金属ではありません」というようなもので他の金属に意識があるのならきっと「じゃぁ、俺たちは何なんだ?」と思うことだろう。このような概念の変化は、概念をア・プリオリな真理ととらえるかア・ポステリオリな真理ととらえるかで生じている。
ア・プリオリな真理ととらえる場合このような概念の変化は生じないが、概念をア・ポステリオリな真理ととらえる場合このような変化は認められる。
ア・ポステリオリな真理とは経験によってわかる正しさであり、ア・プリオリな真理とは経験に頼らずとも命題を見ただけで正しいとわかる真理であるが、この相違は何から生じているのだろうか?。
ア・ポステリオリな真理は帰納的推論から導き出されたものである。
「帰納的推論」とは、具体的な事例(一昨日も日が昇った、昨日も日が昇った・・・)から普遍的な法則(つねに日は昇る)を導き出すような推論のことを言うが、このような推論から導き出された真理を将来に関してまで適用するのは、白いカラスが存在するようにいつ主観的で不確実なものに変化してもおかしくないものであるから、変化するというのはうなずける。
他方、ア・プリオリな真理とは、経験的認識に先立つ先天的、自明的な真理であるから、演繹的推論の大前提となるものであり、演繹的推論とは「前提が正しいと必然的に結論も正しい」のであるから将来についても客観的・確実性を備えるものと言える。
このように両者の最大の相違は、過去・現在ではなく、将来についても言えるかどうかである。
明治時代「天賦人権」と訳された「基本的人権」は先天的概念であるが、戦前の日本はこれを否定していた。このような「天賦人権」を否定する日本会議の糞カルト集団の考える憲法改正がなされれば、籠池氏を見ればわかるように多くの人がいつ「こんな人たち」になってもおかしくないことを知っておくべきだと思う。
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アブダクション
Wikipedia「アブダクション」
アブダクションは、結論 b に規則「a ならば b である」を当てはめて仮定 a を推論する。帰納が仮定と結論から規則を推論するのに対し、アブダクションは結論と規則から仮定を推論する。アブダクションは、推論した仮定が真であることを保証しない。アブダクションそれ自体としては、形式的には論理学でいう後件肯定に等しい。このようにアブダクティヴな推論はそこで提起される原因が疑わしいので、「前後即因果の誤謬 (Post hoc ergo propter hoc)」という時間の前後関係を因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。
アブダクションも「帰納的推論」の一種で、Wikipediaで紹介されている「カラスは黒い」という感じの帰納法は「枚挙的帰納法」のことを言っている。違いはWikipediaでも述べられているように、仮定を推論するか規則を推論するかである。
アブダクションの例をあげるとすれば次のようなものである。
①すべての金属は熱したら膨張する。
②金属Aは膨張した。
③ゆえに金属Aは熱せられた。
これが、
①すべての金属は熱したら膨張する。
②金属Aを熱した。
③ゆえに金属Aは膨張した。
であったなら、演繹的推論となる。
ここで以前ブログでご紹介した「人道」と「鳥獣争奪の道」の話を思いだしてもらいたい。
麻生氏や明治維新の官軍のいうように「結果がすべて(勝てば官軍)」であれば、食糧(現代なら金)が手に入ればそれでいいのであるから、「人道」によろうが「鳥獣争奪の道」によろうが関係ない。
そう考えると人道とは演繹法なのだ。
騙したり盗んだりなどして食糧を手に入れたとしても、それでその人が偉いとか立派だと思うのは「アブダクション」そのものである。
食べれたら一緒か、真面目に働いたから食べれる、どちらもあり得ることであるが、みんながそうしたら戦争になる・平和になる方はどちらか?というのを政治家は考える義務があることを忘れないでもらいたい。
そのような義務を放棄して利己主義(=社会ダーウィニズム)に走るのは専制にも劣る政治形態である。
アメブロでアクセス0の過去記事②
『YESバカですクリニック! | 哲学・倫理時々小説のブログ』 https://ameblo.jp/4649-ixxc/entry-12296280813.html
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